カタチなきもの

6 月20

当日。

母方の祖先の眠るお墓に参ってから

舞台に向った。

わたしには

「これ どこに 置いたら いいですかいねー?」

という 固定された台詞がひとつ 与えられた。

だけれど それ以外の台詞とか 役の設定とかは

曖昧に留められたまま 本番を迎えようとしている。

行きの車の中で 兄が何気なく 認知症の話を始めた。

最近、特別介護施設で働き始めた兄は

高齢者の方に

1日に何度も同じ話を聞かされるのだそうだ。

1日に・・・というかほんの数分の間に

同じ話がループするらしい。

ふと わたしの母だったら 

どんな話をくり返すのだろう・・・と思った。

稽古の時に

母親の真似をするという課題があった。

そこでわたしは

物静かで可愛らしい母を演じた。

すると 森田さんは

「あんた そんな 演技じゃ お母さんがかわいそうだよ。

何十年もかけて子供を育てるっていうのは戦いだよ。

お母さんは もっと必死になっていたはずでしょ。

どうして そこを見ていないの?」

と声を荒立てていた。

母は3人の子供を育て上げている。

笑ったり 怒ったり 泣いたりしながら・・・。

それなのに いざ演じようとしてみると

その怒りがどんなものであったか

その悲しみがどんなものであったのかを

思い出せない。

母がもしも 認知症になったら どんな 話をくり返すのだろう。

山火事が起きた日。

「お昼になったら山で働いている人に

お弁当を届けるように」

というおばあさんからの言いつけを守るために

燃えている山に入っていった事。

生まれたばかりの仔ヤギが

親ヤギの見ている前で

野良猫に食べられて

死んでしまった事。

たけのこの皮で

作ったサンタクロースを

同じ学級の男の子に盗まれた事。

出雲に住んでいた時

松江に住んでいる恋人と

親の反対のため

別れなければならなくなって

最後に1度だけ一畑百貨店で会いましょう・・・と

待ち合わせたら

自分は松江の一畑に行き

恋人は出雲の一畑に行ったため

会えなかった事。

お見合いの席で

その後 夫となる人を待っていたとき

階段をのぼってくる足音に

胸を弾ませて振り返ると

そこには足の短い男(のちの夫・わたしの父)が立っていて

よくあんなに短い足で階段を登れたなぁ・・・と思った事。

・・・なぜだろう・・・母がしてくれた話は

まるで わたし自身の記憶みたいに映像となって残っている。

初めて産んだ子供(わたしの姉・千賀子)

難産の末 生まれてきた赤ん坊が

憮然とした態度である事には、びっくりした。

謙治君(わたしの兄)の 足のかたちは

お父さんの足のかたちと違うから

きっとクラスのだれよりも早く走れる。

ユカが3歳の時に描いた雛人形の絵を見たときに

ユカは絶対に絵の才能があると思った。

でも 

どうやって才能を伸ばしてあげれば良いのか

わからなかった。

野良猫のクロちゃんは 絶対に 夜中の3時ごろに来る。

夜中の2時に置いたえさが朝の5時になったら

なくなっているから 間違いない。

あの窓からは

毎年春になると 桜の木が見える。

それが 本当に 楽しみ・・・。

母の声が いっぱい いっぱい 聞こえてきた。

このカタチのない

母の記憶。

こんなに輝いている

母の言葉。

いつか消えていってしまうのかな・・・。

今朝 手を合わせに行った墓地は あまりにも静かだった。

悲しくて

そして

美しすぎて

涙が止まらない。

わたしは舞台の上で 

母を演じる事にした。

何せ 今日は 母が見に来ているのだ。

本番まで あと2時間

もうすでに 泣いていますが 

大丈夫でしょうか・・・。

ほんとうの幸せ

6 月19

森田さんについて語ろうとするとき

おそらく多くの人が

彼の奥深い人間性や鋭くも温かみに満ちた感性を

どのように表現しようかと熟慮するあまり

最後まで言い忘れてしまう事がある。

それは

森田さんは片足がなく 車椅子である事。

わたしなんて

森田さんについて熱く語った挙句に

「・・・で 森田さん 片足あるんだよね。」

と不適格な表現をしてしまったほどだった。

社会的に「障害」と言われるものは

森田さんの持つ強烈な個性の前で

存在感を消し去っている。

舞台前日。

今日の稽古では 

ようやく上向きかけていた自信が

マイナスに下回る出来事があった。

おおよその配役が決まり

グループでの演技に入ったわたしたちは

そのグループ内で

試験的にいろいろな演技をしていた。

「それじゃあ その 隣の人

ユカリさんを 叱ってみて・・・」

という森田さん。

となりの人が リアルな出雲弁で 

わたしを叱り始める。

頭では

これに対して

どんな台詞を言おうかと

それなりに冷静に

考えていた。

だけれど

心のほうは

どうやら

その叱責を真に受けてしまっていたらしい。

気がつけば泣きそうな顔で

舞台に立っていたのだ。

われながら 馬鹿だなぁ・・・と思うけれど

もともと すぐ涙目になってしまう

傷つきやすい性格。

舞台前日になって

泣いてしまうのではないか・・・

それから

緊張しすぎて吐いてしまうのではないか・・・

という どちらをとっても 生理現象系の

次元の低い不安に駆られた。

「舞台の上で泣いてもいいけど

今みたいな泣き方だと 

客席が同情しちゃうでしょ。

もっと嫌な奴を演じて

それから泣いたほうが

客席は喜ぶ。

みんなが’’ざまぁみろ’’って

思うようにしたほうが

面白いよ。」

と森田さんは言う。

泣くな・・・とは言わない。

すぐ涙が出ること。

現代社会に生きる人々のうちの何人くらいが

このわたしの大変厄介な性質を

「個性」と呼んでくれるだろうか。

今の世の中で「個性」という言葉が使われるとき

それは人のもつ社会的に見て有益な特徴を指している事が多い。

才能とか能力とかそんな言葉と同義語のようにさえなってきている。

「個性をのばす」と言うとき 

誰もそれが

どうしても時間を守れない怠慢さや

つい人と自分を比べてしまう妬み深さを

増長させようとしているのだとは思わないだろう。

だけれど 本当は 本当のところは

ダメなところこそが個性で

そんなダメな個性こそが誰かを救うことができる。

遅刻常習犯は今日も上司に叱られている

救われているのは誰だろうか。

おそらく救われているのは上司のほうだ。

醜い女は今日もひっそりと部屋の隅にいる。

救われているのは誰だろうか。

部屋の真ん中にいる美女のほうだ。

下らない男は今日も愚説を唱える。

救われているのは誰だろうか。

彼を嘲笑するまわりの人間だ。

「昔は老人がいて良かった。

今の年寄りは なんだか若々しいでしょ。

あれじゃ ダメだよ。

昔の老人はもっと本当に年寄り臭くて

うるさくて 厄介だった。

彼らがいるから若い人は

自分は若いって思う事ができたんだ。

そういうのって幸せな事でしょ?」

幸せな事・・・テレビのコマーシャルで見た

あの’’幸せ’’と 

現実の世界の’’幸せ’’は違うんだ・・・。

きっと それはそれは 大きく違うんだ・・・。

わたしたちは

遅いよりも 早いほうが良いと思っている。

醜いより美しいほうが良いと思っている。

愚かなのよりも賢いののほうが良いと思っている。

そして、絶対的に

老いているよりも若いほうが良いと思っている。

どうしてだろう。

もしかしたらそれは 

誰かを救うよりも 

自分が救われたいからなのかもしれない。

誰かを幸せにするよりも

自分が幸せになりたいからなのかもしれない。

「目の前にいる人のために

お行儀悪く座ってみて・・・」

森田さんの一番初めの指示。

その意味が 

舞台前日になって

ようやくわかったような気がする。

森田さんは「泣くな」とは言わなかった。

でも さすがに「吐くな」とは言うかな?

もしかしたら

「吐いても良いけど 人が喜ぶように

誰かのためになるように吐いて。」

って言うのかも・・・。

とても正直に言って 明日が怖い。

ここにある音

6 月18

大物俳優さんが来たところで

取材陣が騒がしくなってきた。

わたしも どさくさに紛れてインタビューを受けたりしている。

テレビやラジオ、新聞などのメディアが

どのように このワークショップを解釈して報道するのだろう。

このワークショップがやろうとしている事は

メディアが向っている方向の真逆だから

分かり合えないところが多々あって

報道にのせるのも難しいんじゃないかなぁ?

と思ってしまう。

「イッセー尾形のつくりかた」

というワークショップ。

明後日には本番なのに まだほとんどの人に役がついていない。

だけれど そんなに 焦らなくなってきた。

なぜなら稽古を始めるよりもずっと前から

わたしたちは現実の世界を生きているから・・・。

ワークショップには

5つ年上の兄が一緒に参加している。

「向こうの席にいる人って もしかして・・・ユカリさんの?」

「・・・兄です。」

「あ・・・やっぱり。 

雰囲気が似てますよね。」

30人もいる参加者の中で

あの2人は兄妹では・・・?

と察知できる人間の能力というのは偉大だ。

例えばわたしたちの兄妹関係を

テレビドラマふうに演出すると

どうなるだろう。

兄とわたしは こんなふうに 離れて座らず

隣同士で座っている。

そして2人は

唐突に子供の頃の思い出話を始める。

そこには感動的なBGMが流れて

セピア色がかった回想シーンが

挿入されるかもしれない。

テレビが求めているのは

誰が見ても一目瞭然の

わかりやすい情報。

それは大変親切ではあるけれど

現実には存在しない嘘の世界だ。

そしてその世界は完成に近づけば近づくほど

見る側の想像力を刺激しなくなってしまう。

「夏の音をやって・・・」

と森田さん。

参加者の1人が 高らかに 

「ミーン ミーン」

と せみの鳴き声をすると

森田さんは それをすぐに 中断させて

「それは 東京の夏でしょ・・・。

この土地の夏は違うはずだよ。」

と言った。

「どうして東京や

テレビの解釈を入れてしまうの?

ここにある音は 

ここにいる人にしか表現できないんだから

それをやってよ。」

そう言われて 参加者の皆さんが出した音は

誰の解釈も加えられていない独特の音だった。

森田さんは

それを次々につなげてゆくように指示を出す。

最後には30人全員が

それぞれの夏の音を響かせていた。

嘘の世界から借りてきたものではなくて

自分の中にあるもの。

ひとたびそれを空気中に発することができれば

それは必ず何かと結びついてゆく。

その事を証明してくれるような

この土地の夏の音がそこにあった。

きっと本番はうまくゆく。

舞台まであと2日。

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