チキンスープと登山(5)孕→乃?
こんなふうに「子育て」「教育」的な事が脳裏を占領しはじめた原因というのも、
自身が30歳を過ぎ、出産のタイムリミットを意識しはじめた事や、
去年の秋に結婚した姉が、来月に出産を控えており、
スカイプで話すたびに臨場感いっぱいに、
妊娠生活の素晴らしさを語ってくれるせいだろう。
ここ中国での出産は「帝王切開」が半分以上、
「そちらのほうが一般的」とさえ言われている。
妊婦とその家族が、縁起の良い日を選択して、その日に出産できる利点や、
産後の体型崩れ防止など考慮して、帝王切開を選ぶのに加え、
病院側が、自然分娩と比べて、施術が楽な上に、効率的で、
なおかつ高額な料金を請求できる帝王切開を積極的に推奨するらしい。
中国では、出産方法が近代化される一方、
中国の伝統的な配慮から、医者が出産前に性別の告知をする事は少ないという。
姓を継承する事のできる男児が喜ばれる中国社会において、
女児を授かった妊婦を親類の無言の圧力から守るための習慣なのかもしれない。
もしも、どうしても性別が知りたい場合は
医師の前に大金を積むか、占い師に聞きに行くかの二者択一となる。
一昔前の話かもしれないが、胎児が、女児であるとわかった時点で、
中絶する、もしくは、時既に遅しという場合は出産後、
子供を放棄する親もいたそうだ。
一体、どのような形で、子どもを放棄するのかは、想像しがたいが、
中国の新生児の男女比が著しく男児に偏っている事からして、
中国に、かなり効果のある産み分け漢方薬が存在しないかぎり、
何らかの手段で女児が消されているという事は間違いない。
「消す」という表現を使ってしまったのは、
おそらくわたしが仕事に向かうバスの中で、
度々目にするテレビコマーシャルのせいだろう。それはこういったものだ。
白い服を着た美女がなにやら憂鬱な横顔で佇んでいたかと思うと、
急に何かを決意したように振り向く。
そして、次のカットで彼女は、リラクゼーションチェアのようなものに横たわる。
そして彼女が目を閉じると、
習字の用紙に墨で書かれた「孕」という文字に手がかざされ、
キラキラと光る星屑と共に「孕」の「子」という字が消えてゆく。
女性は幸せそうな顔で目を覚まし病院を後にする。
そしてそれを背景にして「天津○○産婦人科」というテロップが映し出される。
便秘薬のコマーシャルのような、爽やかなノリであるが、
これは安全で、快適な(?)施術をアピールした「妊娠中絶」のコマーシャルである。
中国人で、かなり敬虔なカナダ人クリスチャン夫婦の養子である友人とバスに乗っている時に、
ちょうど、このコマーシャルが始まったので、
少し眉をひそめながら「ほら、見て」と注意を促してみたが、
彼女からは、特に何の反応も感じられなかった。
中国では(たとえクリスチャンであっても)中絶というのに、
それほど抵抗がないようだ。
国としても、できる事なら子供を産んで欲しくないという実情があるから、
中絶に罪の意識を埋め込まない配慮があるのかもしれない。
わたしが度々、感じる、中国の親と子どもの距離というのは、
もしかしたら、出産の前から発生している
「新しい生命に対する概念」の違いなのかもしれない。
最近ではそんなふうに思うようになった。
中国は、経済、生活の水準などが、加速的に発展しており、
おそらく今、世界で一番「未来」に向かっている国だと言っても良いだろう。
ところが、親たちの代では、
まさかその未来が今の子どもたちに託されているとは、
思いもよらないといった様子で、
未来を担う子どもにとって重要な社会性や、道徳などの教育を
容赦なくスキップし、
ある限定的な分野における競争に負けない子どもを
ひたすら作り出そうとしているように思える。
エリートに限らず、一般の中国人が「未来像」をもつこと、
そしてそれを学校教育や家庭内の教育に反映させること、
そういった事ができれば、中国は変わる。
人々が未来を思い描く事。
新しい生命にワクワクして、未来への希望を持つ事。
そんな事は、民主主義を導入するまでもなく、
すぐにでもできるはずだ。



