体の声
朝起きて、体をチェックします。
痛いところはないか、だるいところはないか・・・。
今日は、ちょっと 鼻の通りが悪い気がする。
右手より左手のほうが重い気がする。
穂高から帰って、そういう、ちょっとした事に目を向ける時間を大切にしています。
穂高に来て3日目、肉体的、精神的な疲れがピークに達して、腰を痛めました。
全く新しい環境での生活。その上、通訳がうまくできないストレスと
肉体労働の厳しさ。
そういうものが 重なって、もともと弱い腰を直撃したのだと思います。
「もう島根に帰ろうかな・・・」
鈍い痛みに発するように、そんな思いがよぎりました。
そして、そう思うたびに、自分が情けなくて涙が出てきます。
そんな時に
「ちょっと腰を見てあげるよ」
と声をかけてくれたのが、スタッフの鍼灸師さん。
私は 痛みを伝えるのが苦手です。
だから、よく病院で困ります。
「どう痛みますか? どんな時に痛みますか? どうすると痛いですか?」
そう聞かれると、なんとなく、相手に求められているような事を言ってしまうけれど
いつも、後で後悔します。
「私の痛みは、そういうのじゃないのに・・・」
と。
鍼灸師さんにも聞かれました
「どんなふうに痛いの?」
私は言葉に詰まります。
そして、鍼灸師さんは こう聞きなおします。
「気持ちや 心の事でも良いから、どんな感じか教えて・・・」
「・・・・辛くて、心細くて、悲しくて、痛いです。」
言うなれば、私の痛みはそんな感じ。
鍼灸師さんは
「そうか・・・」
と言って、鍼を施術してくれました。
初めての鍼の感覚を味わいながら、東洋医学の話を聞きました。
親からもらう「気」のこと。 体のつながりのこと。
私は、こんなに 医療と治療の情報が溢れている 社会を時々恐ろしく感じます。
ですから、穂高に来た理由のひとつは、生と死について、知りたいから、というのがありました。
もしも自分が死にそうになったときに、一体、何を信じて、どう生きれば、または、どう死ねばよいか?
そういうのを、少しゆっくりと考えてみたかったのです。
東洋医学の話は、その答えを導いてくれる真実に溢れていました。
人は体で生きているのではなくて、そこを流れる生命で生きている。
死とは生の中に含まれている。
東洋医学の考え方は、私の持っていた(おそらく西洋医学的な)生命に対する考え方を
大きく、しかもあっさりと覆しました。
内臓移植のこと、尊厳死のこと、考えても考えても 一体、何が正しいのか答えが出なかったけれど
東洋医学的に考えれば、わかる気がする・・・。
その日、私は鍼によって、そして、人の手によって、その生命(気)を癒してもらっているのでした。
こうやって、人を癒すことのできる「人の手」というのに感動して、またまた涙が出てきます。
(穂高では、本当によく泣きました)
翌日、腰を押さえつけていた鉛の塊みたいなものはどこかへ消え去り、体がふわりと軽くなっていました。
早速、鍼灸師さんにお礼を言うと
「鍼は治癒のきっかけを作っただけで、腰を治したのは、自分自身なんだよ」
と教えてくれました。
体 というのは凄いです。
それなのに、人というのは、体の声に耳を傾けないものだな。と思います。
自分のもつ、感覚というのは、自分にしかわかりません。
見た目ではわからない痺れ。 触ってもわからない痛み。
そういうものに、耳を傾けられるのは、自分しかいません。
そして、自分の体に耳を傾けられないのならば、自分の心に耳を傾けることもできないのだと思います。
人が決断できない時、迷いを感じる時、そしてなげやりになる時
それは心とのコミュニケーションがうまくいっていない時だと思います。
「自分が本当はどうしたいのか?」
それは、誰に聞いても、わかりません。 知っているのは自分自身の心であり、体です。
だから、日ごろから、体と心の声に耳を傾けていたいものです。
私は今朝、心と体が今、何を欲しているのかを聞きました。
そしたら、彼らはこう言いました。
「みんなに感謝を伝えたい」
