イパネマの娘

4 月28

まずはじめに

先日ブログのほうでも少しお話しました

「YoYoMAを大社にお迎えする」

という案が、思った以上の反響を呼んでいます。

・・・というかここへきて「反響」という言葉の意味を実感するようであります。

それは、胸の中の響きが 言葉や行動とともに外に出て

それが他の人に 伝わってゆくことを言うようです。

わたしの提案に、はじめは

「そんな夢のような話を・・・」

と言っておられた方が、その数分後には

「もしも、YoYoMaが来たら、白鳥だけは絶対に生で聞きたい!」

と大変具体的な事柄を熱望されていたりするのを見ると

想いとは伝わるもので、そして想いがある限りは

叶わない夢はないのだと実感します。

そしてこ「音楽」とは、こんなにも人の心を動かす事ができるのかと

驚かされます。

音楽を好きになればなるほど

自ら楽器を演奏したり、音楽を作ったりできないのが

残念に思えてきます。

音楽の良いところは

どのようにしても 抽象である事ができて

一時一時に消えてゆく「音」を材料にしているということ。

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「The girl from ipanema.」

その美しい女の子は

海へ向って歩いてゆく

金色の肌はイパネマの太陽のように美しくて

歩く姿はまるで一遍の詩のようだ。

僕はどうして、ひとりぼっちで

どうしてこんなに悲しいんだろう。

あの子は僕のものじゃない。

あの子は知っているのかな?

そんなふうに歩くだけで 

世界は微笑んで

愛の力で輝き始めることを。

あの子は通り過ぎてゆく

ここにいる僕には

見向きもしないで

あの子は通り過ぎてゆく。

海に向って。

(アントニオカルロスジョビン)

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日本の位置からすると、地球の裏側、ブラジルでもやはり

そんなふうに歌われているようですから

美とは過ぎ去ってゆくもの

一時一時に消えてゆくもの

というのは、宇宙の法則なのかもしれません。

過ぎ行くものを 過ぎ行く素材で表現する

音楽という芸術が好きです。

この熱狂は一生やまないのだろうと思います。

一方、わたしの表現の材料はやはり「色」のようです。

実は1年ほど、油絵をお休みしていました。

とてもまずい事に

「お休み」というよりは「行方不明」というかたちで

師匠の前から姿を消していたのです。

ですから、絵を描きたい想いを

師匠に顔向けできないという体裁が塞いで

身動きがとれずにいました。

ところがこの状況に、複数の奇跡が作用して

この春からは、絵の世界に帰る事ができるようになったのです。

1年間でガチガチに固まってしまった絵の具のチューブを

ライターの火で炙って溶かしながら

「やれやれ・・・」

と思いました。

本当に丸1年、「色」を置きっぱなしにしていたんだなぁ・・・と。

愛犬ヤクモでも3日くらいほったらかしにすると

しばらく待遇が冷たくて、目を合わせてくれないほどですから

1年ぶりに画材に向うのは、少し怖いような思いです。

ところが描き始めてみて驚きます。

絵筆のほうは、わたしの思いとは裏腹に

妙に自信たっぷりで動くのです。

音楽を聴いているような

風にのっているようなそんな感覚です。

正直にいって、そんな気持ちで描いたものが

絵として、どうなのか・・・というのはわかりません。

ただ、確かに変化している。

楽しくなってきているというのは事実です。

この1年間、色をあまり観察しなくなっていたし

ものの形状などにも注視せずいましたが

目を怠けさせていたぶん

知らず知らず

他の感覚に滋養が行き渡っていたのかもしれません。

知らず知らず・・・という事は

そこで備わったものは

わたしの力によるものではではなくて

ひとさまのお力によるものなのだということです。

ありがとうございます。

過ぎ去ってゆく「美」に寄り添っていたい

という、なんだか子供じみた気持ち・・・

実際に、子供の時に夕暮れを見ながら思っていたままの気持ちを

今でも持ち続けている わたしに

天が引き合わせてくださるもの。

その偉大さには、日々驚かされます。

ありがとうございます。

そんなわけで

きっと数年後の出雲大社にも

わたしの力ではなくて

誰かの力で

奇跡が起こることと思います。

ありがとうございます。

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