ヴィーナスの視線
島根県立美術館で行われている
フランス絵画の19世紀展。
松江市にお住まいのみなさん
会場に足を運ばれましたか?
わたしは3月にフランスに行ってきたばかりで
島根に帰ってまでもフランス絵画をみなくても良いかな?
というふうに どこかしら思っていて
「結局美術館の前を通り過ぎるだけで終わってしまうのでは・・・」
という気配がしていましたが
今回の絵画展、8年前から準備が進められていたというお話を聞き
これは ぜひとも
「絵画」を鑑賞するというだけではなくて
「展覧会」という、島根県立美術館の方々の努力の結晶を
見させていただかなければ!!と
出かけてまいりました。
「アカデミズムか?印象派か?」
わたしが描いている油彩画の技法はアカデミズムの技法です。
下絵の段階で しっかりとした描写を入れ
筆跡を残さないで描いてゆく。
最近の油彩画は
絵の具を盛り上げて凹凸をつくったり
デフォルメを駆使したり
「こちら」の都合で描いてゆくのが主流ですが
わたしが研究させていただいている古典主義と呼ばれる手法では
どちらかと言えば 「あちら」の都合で 描いてゆく事が多いです。
わたしは主に自然を描きますので
わたしにとっての 「あちら」(対象)は風景。
山や空 海などのことを言います。
19世紀のアカデミズムの画家たちがこぞって描いた 「あちら」 は
何だったかというと
ギリシャ神話や歴史的事件などのテーマ。
これらが画家が取り扱うべき最も尊い題材とされます。
このとき絵画ジャンルは序列化されており
風景画はその下のほうのレベルのものとされていたようです。
例えばどんなに良く出来た長編小説でも
国が発行する予算案や
政治家さんのマニフェストと同じ土俵で
発言力や効力を争わないようなものかもしれません。
ところが この公的文書のような役割にあった
アカデミズムの絵画は
19世紀という時代の波にもまれて
面白い変遷をたどります。
絵画の中に見て取れるその変化は
外務省の通達にこんな一節をみつけるようなものです。
「国会における関連法律
国際通貨基金及び国際復興開発銀行への
加盟に伴う措置に関する法律の一部を次のように改正する。
第二条中「百三十三億千二百八十万特別引出権」
を「百五十六億二千八百五十万特別引出権」に改める。
なお
最近好きな人ができました。
告白しようかどうか 迷っています。
以上。」
この19世紀という時代の絵画において
筆跡を消した絵画のあちらこちらから
「こちら」の都合が あふれ出ていたのです。
それが 一番わかりやすいのが
「ヴィーナスの誕生」
ヴィーナスの誕生は
海から女神が誕生するというギリシャ神話の
重要なシーン。
この時のヴィーナスは神という設定ですから
理想化された格式高い姿でなければなりません。
・・・・ところが
アモリ-デュバルの「ヴィーナスの誕生」こそ
アングルの手法を用いた優秀作品だとしても
カバネルの描いたヴィーナスは
官能的なポーズをとってこちらを見つめており
その上を 言い訳がましく
天使たちが飛び交っている。
ボードリの描くヴィーナスは
あからさまに挑発的な表情をしており
体つきも 神というよりは 不完全な人間のものです。
こうやって 大真面目な人々が
荘厳な「あちら」にフォーカスするあまり・・・なのか
いつの間にか「こちら」・・・私的なエロスをほのめかしているのが
19世紀の絵画の面白いところ。
きっとこの頃フランスで芸術に尽力していた人々は
ピュアで可愛らしい人々だったんだろうなぁ・・・・。
ぜひ 1度 会ってみたい!!
と心の底から思います。
その後 印象派などが出てきて
市民による芸術の流れができ
アカデミズムとの結婚を果たすあたりでも
素晴らしい折衷の美術が生まれます。
脈々と続く芸術の歴史。
わたしが絵筆を握っているのは
その流れの隅っこで
水遊びをしているようなものなのかもしれませんね。
また 会いたい人が増えました。
そして 会いたいと思っていれば
本当にその人に会えてしまうのが
人生のおもしろいところ。
ヴィーナスの視線が繋いだ
19世紀の芸術家とわたしは
どんなふうに
どんなかたちで
出会うのだろう・・・・・。
こんなふうに
ヴィーナスとわたしを繋いでくださった
島根県立美術館のみなさんに
お礼を言いたいです。
素晴らしい展覧会を
ありがとうございました。
そして
本当に本当に
お疲れ様でした。

