5 月30

島根県立美術館で行われている
フランス絵画の19世紀展。
松江市にお住まいのみなさん
会場に足を運ばれましたか?
わたしは3月にフランスに行ってきたばかりで
島根に帰ってまでもフランス絵画をみなくても良いかな?
というふうに どこかしら思っていて
「結局美術館の前を通り過ぎるだけで終わってしまうのでは・・・」
という気配がしていましたが
今回の絵画展、8年前から準備が進められていたというお話を聞き
これは ぜひとも
「絵画」を鑑賞するというだけではなくて
「展覧会」という、島根県立美術館の方々の努力の結晶を
見させていただかなければ!!と
出かけてまいりました。
「アカデミズムか?印象派か?」
わたしが描いている油彩画の技法はアカデミズムの技法です。
下絵の段階で しっかりとした描写を入れ
筆跡を残さないで描いてゆく。
最近の油彩画は
絵の具を盛り上げて凹凸をつくったり
デフォルメを駆使したり
「こちら」の都合で描いてゆくのが主流ですが
わたしが研究させていただいている古典主義と呼ばれる手法では
どちらかと言えば 「あちら」の都合で 描いてゆく事が多いです。
わたしは主に自然を描きますので
わたしにとっての 「あちら」(対象)は風景。
山や空 海などのことを言います。
19世紀のアカデミズムの画家たちがこぞって描いた 「あちら」 は
何だったかというと
ギリシャ神話や歴史的事件などのテーマ。
これらが画家が取り扱うべき最も尊い題材とされます。
このとき絵画ジャンルは序列化されており
風景画はその下のほうのレベルのものとされていたようです。
例えばどんなに良く出来た長編小説でも
国が発行する予算案や
政治家さんのマニフェストと同じ土俵で
発言力や効力を争わないようなものかもしれません。
ところが この公的文書のような役割にあった
アカデミズムの絵画は
19世紀という時代の波にもまれて
面白い変遷をたどります。
絵画の中に見て取れるその変化は
外務省の通達にこんな一節をみつけるようなものです。
「国会における関連法律
国際通貨基金及び国際復興開発銀行への
加盟に伴う措置に関する法律の一部を次のように改正する。
第二条中「百三十三億千二百八十万特別引出権」
を「百五十六億二千八百五十万特別引出権」に改める。
なお
最近好きな人ができました。
告白しようかどうか 迷っています。
以上。」
この19世紀という時代の絵画において
筆跡を消した絵画のあちらこちらから
「こちら」の都合が あふれ出ていたのです。
それが 一番わかりやすいのが
「ヴィーナスの誕生」
ヴィーナスの誕生は
海から女神が誕生するというギリシャ神話の
重要なシーン。
この時のヴィーナスは神という設定ですから
理想化された格式高い姿でなければなりません。
・・・・ところが
アモリ-デュバルの「ヴィーナスの誕生」こそ
アングルの手法を用いた優秀作品だとしても
カバネルの描いたヴィーナスは
官能的なポーズをとってこちらを見つめており
その上を 言い訳がましく
天使たちが飛び交っている。
ボードリの描くヴィーナスは
あからさまに挑発的な表情をしており
体つきも 神というよりは 不完全な人間のものです。
こうやって 大真面目な人々が
荘厳な「あちら」にフォーカスするあまり・・・なのか
いつの間にか「こちら」・・・私的なエロスをほのめかしているのが
19世紀の絵画の面白いところ。
きっとこの頃フランスで芸術に尽力していた人々は
ピュアで可愛らしい人々だったんだろうなぁ・・・・。
ぜひ 1度 会ってみたい!!
と心の底から思います。
その後 印象派などが出てきて
市民による芸術の流れができ
アカデミズムとの結婚を果たすあたりでも
素晴らしい折衷の美術が生まれます。
脈々と続く芸術の歴史。
わたしが絵筆を握っているのは
その流れの隅っこで
水遊びをしているようなものなのかもしれませんね。
また 会いたい人が増えました。
そして 会いたいと思っていれば
本当にその人に会えてしまうのが
人生のおもしろいところ。
ヴィーナスの視線が繋いだ
19世紀の芸術家とわたしは
どんなふうに
どんなかたちで
出会うのだろう・・・・・。
こんなふうに
ヴィーナスとわたしを繋いでくださった
島根県立美術館のみなさんに
お礼を言いたいです。
素晴らしい展覧会を
ありがとうございました。
そして
本当に本当に
お疲れ様でした。
5 月29

そもそも
世の中には「嘘」が多くて
「真実」はほんのわずか・・・。
ですから
世の中の
たいていの事を
ひとまず懐疑的に見ておいて
間違いはない
と思っています。
そして
だからこそ
「真実」というのは価値があって
見つけたときには
大事に両手で拾い上げるに
値するのだとも思います。
そんな怪しさいっぱいの世の中で
とくべつ
不可解さが際立っているのが
環境問題。
とくにエコという言葉はどうかなぁ・・・と思います。
例えば
リストラクチュアリング(再構成)という言葉が
「リストラ」と略されてから
何が起こったのか・・・
それは
人員削減をオサレに言っているくらいの
都合のよい意味合いに
変換されてしまって
その先にあったはずの
組織の再構築を問われなくなってしまった。
環境問題、やエコロジーという言葉を
ひっくるめて「エコ」と言われるようになって
何が起こったのか。
環境問題への取り組みが
新たな消費のスタイルになってしまった。
エコロジストがそもそも持っていた
反企業・反体制といった色彩は
グリーンの単色で塗りつぶされてしまった。
今や
エコという言葉を最も愛好しているのが
政府や企業です。
みんな一緒に
同じTシャツを着て
同じ笑顔で手を繋いでいるイメージ。
全部が全部ではないけれども
時々
それがまるで急速に肥大した怪物みたいに見えてくるのは
わたしだけかなぁ・・・。
・・・とまぁ、そんなことを 沸々と考えながら
在来線で4時間くらい・・・
島根の西の西
益田まで行ってきました。
「養老先生が語る
21世紀を森林(もり)の時代に」
という講演会を聞きに。

少し出遅れてしまい
養老先生のお話を聞きそびれてしまいましたが
午前10時から午後4時まで
グラントワの大ホールで行われたシンポジウムの
午後の部のみ、参加させていただきました。
まったく未知の世界だった林業。
森林組合=人工林を管理する団体
というくらいの認識しかなかったわたしは
早速メモをとりながら
梶山恵司(ひさし)さんの
ケーススタディー
「日本林業に再生のチャンスが来ている」
に聞き入ります。
・・・ところがこのお話が
無知なわたしにはついてゆけないくらい
速い。
スライドショーもどんどん過ぎ去ってゆく。
30分くらいの講演の中で書きとめることができた内容は
森林組合と企業との自由競争が成立しないこと
日本の林業機械がドイツなどの森林大国のものと比べて
30年ちかく遅れをとっていること
それから
日本に専門的知識を有している
フォレスターが不足しているのだということ
そして 作業機械を入れる路網つくりが必要だということ
などでした。
近年の林業再生の理論的支柱と紹介されている方だけあって
論点が鋭く、そして 先ほども述べましたが
本当に話の展開が速いのです。
お話についてゆけない年配の方は
うとうと眠りの世界に入っておられました。
しかし、その電光石火の講義についてゆく気力のあるものにとっては
梶山さんのお話・・・というかパフォーマンスはとても有意義だったと思います。
なぜなら、梶山さんが今の日本の現状に本気で「怒って」おられたから。
それは
噴火するマグマのような真っ赤な怒りではなくて
冷え固まった火成岩のような
紫の怒り。
そして その次に講演をなさったのが
湯浅勲さんという
日吉町の森林組合のかた。
「難しいお話が続きましたので
・・・みなさん 指と指をクロスさせて
ぐーっと 伸びをしましょう。
はい それをゆっくり右に倒してー
次は 左ーっ」
寝ていたおじいさんたちは
突然の のびのび体操 の指示に
催眠術にかけられたようになって
ゆらゆら 右ーっ 左ーっ と揺れていました。
その湯浅さんという方は
ほとんど機能しなくなってしまっていた
日吉町の森林組合を
ものの10年で甦らせるという快挙を成し遂げた方なのだそうです。
・・・と・・・この方のお話も非常に展開が速い・・・というか軽快。
どうやら 1人あたりに割かれている時間が30分と大変短く
みなさん 少し急ぎ足で話を進めなければならないようです。
わたしのノートの上にはミミズのような文字が連なってゆきます。
今、森林組合がやらなければならないこと
・現状を知る
・何日までに目標を達成するのかという日付設定
・そこに到達するまでのロードマップを作る。
・・・これは 森の仕事以外でも当てはまりますね。
そして してはならないこと
・皆伐
・むやみな 林道・作業道開設
・出来ない理由を述べて 具体的な行動を起こさないこと
・・・最後のひとつは
なんとも身につまされます。
湯浅さんは民間企業から
森林組合に転職して その現状を目の当たりにされ
「大正時代やないか・・・」
と驚愕・・・組合の組織改革に着手されたのだそうです。
関西弁でさらりと進んでゆく講義の中にもまた
若干 現状に呆れかえっているような
蛍光灯のように発熱しない・・・だけれど力強い
白い怒りのようなものを感じました。
エコというのが
グリーン1色ではなくて
その日 壇上から放たれていた
怒りの色合いのように
ひとそれぞれの色調で
形成されていると良いです。
怒りの感情というのは
不調和音のようなものですから
社会から疎まれます。
だけれど この不調和音がなければ
社会は変わらない。
ホッキョクグマの映像を見て
シンパシーに流されるまま
グリーン1色の世界に身を隠して
エコでロハス快適な生活を送るよりも
あんなふうに
気持ちよく怒っているほうが
ずっと楽しい人生かも・・・。
もしも
みんなが それぞれの
怒りを昇華させることができたなら
世界はもっと
色とりどりで平和な時代がやってくると思います。
養老先生には会えなかったけれど
カッコイイ大人たちの怒りを感じることができた
すばらしいシンポジウムでした。
Thanks!!
5 月22

母が裏庭の畑にしゃがみこんで、首をかしげていました。
水菜の苗の間から、植えた覚えのないカボチャの芽が出てきたのだそうです。
「それから あれは・・・きゅうり?」
と言って指をさしたナスの苗の少し横にも
小さな苗がすっと立っています。

カボチャとキュウリ
そして
この絶妙な間の感覚・・・
もしかして・・・。
「お母さん、肥料は何を使ったの?」
「何って、こないだビルちゃんのお部屋から持って帰った・・・」
カボチャを種ごとムシャムシャしているビルの
満足げな顔が思い浮かびました。
「あ・・・お母さん、この苗 多分、今流行りの豚由来のものだと思う・・・」

カボチャの植え付けは5月上旬ですから
おそらく最適な環境の中でスクスク育っていったのでしょう。
ビルの力強い咀嚼にも
貪欲な消化吸収にも負けず
新しい場をみつけて
新しい命を芽吹いた
カボチャとキュウリ。
自然のもつ力はすごいですね。
それと
こんなに早い段階でカボチャとキュウリに気がついた母も
なかなか目ざとい☆
人間の2つの目
そこからつながっている脳をあわせても
人は、そこにある現象のうちの
8パーセントの情報しか処理できないのだそうです。
なので水菜の畑から 突如 カボチャの苗が育っていても
相当大きくなるまで
たいていの人は気がつかない。
もしくは
「いいえ、これは カボチャのようですけど
水菜を植えた畑に生えていますので
カボチャであるはずがありません。」
というふうに処理してしまう場合もあるのだそうです。
そんなふうに92パーセントの世界の奇跡を
歓迎できなくなってしまうのは
なんだか寂しい事だと思いますので
いつでも目を凝らしていたい。
世界を感じていたい
というふうに思います。
それでもやっぱり
世界はわたしが思っている以上に大きくて
その上
とても細かい細工がなされているよう・・・。
ある時は
知らない間に庭先で大きく育っていた花が
雨の中からこちらを見ているのに
驚いたり

またある時は
ふと見上げた空に
この瞬間のうちに死んでゆく覚悟で
美を描いている色を見つけて
涙がこぼれたりするのです。

きっと 何の作為もなくそこにある92パーセントの世界は
誰かに意図された情報とは比べ物にならないほど
大きな力と奇跡によって成り立っています。
今この時、この場所にも
その奇跡は
起こっているのだと思います。
(追記)
その後 92パーセントに属していた 豚由来のカボチャは
大きな力と奇跡によって
ありえないくらいの急速な成長をとげています。