温泉地の回想「100円の姫」
プラットホームに降りたつやいなや
硫黄の匂いが鼻をついた。
日本でもっとも有名な温泉地のひとつである
九州のその街は
その知名度が想像させるほどは
ひと気がなく
その時ほぼ満席であった わたしと同じ車両から
その駅に降りたのは
バスケットボールケースを担いだ
ユニフォーム姿の学生の集団だけだった。
その時の所持金は
たしか800円くらいで、わたしは
今のこの日本で
手持ちのお金が1000円を切っている人というのが
どれくらいいるのだろうか などと考えていた。
駅の構内にあるドーナツ屋に入って
コーヒーとドーナツを注文する。
店員の対応に棘があるように思えて
カウンターの向こうに目をやると
上品な色白の面立ちの小太りの男性が
サービス精神いっぱいの笑顔を浮かべている。
対応が乱暴に感じられたのは
貧しさに丹を発した被害妄想だったのかもしれないと
思ったところで、その店員の名札を見ると 名前が
李 と それから 見慣れない漢字によって構成された
中国語である事に気づいた。
さきほど感じた違和感は日本語のアクセントによるものだったらしい。
「ごゆっくり おめしあがりくださいませ」
中国人が妥協なく正確で、そのため少し角のある発音で
そう言って トレーを渡し、慣れた笑顔をこちらにむけたところで
わたしの財布の中身は500円をきった。
先ほど自動ドアにはられていた「アルバイト募集」のポスターに
時給750円と書かれていた事を思い出す。
という事はこの中国人は
1時間にも満たない労働で わたしの今の
全財産をカバーできるという事になる。
時間に金銭が発生するというシステムに
それほど肯定的でなかったわたしだけれど
その時ばかりは
この中国人の金銭として累積されてゆく時間が羨ましかった。
ドーナツを頬張って
無料サービスのコーヒーをお代わりすると
ペーパーナプキンに ボールペンで
この旅の支出の品目を書き出してゆく。
夜行バスのチケット
バスの中で食べた おにぎり
コンビニで買った履歴書
古びたボックスの中で写した証明写真
それと 今食べているドーナツ。
そんなふうに してみたところで
手持ちの額がかわるわけではないけれど
やっているそばから 気持ちが落ち着いてゆくのを感じた。
わたしは 何も 日光に水分を吸いあげられるみたいに
お金を失っているわけではないのだ。
あと200円ほどしか残金のないところで
もうひとつドーナツを・・・と思ったが
この地域では
市民温泉に100円ほどで入れるのだと
何かで読んだのを思い出し
ひとまず 駅の周辺に温泉を探してみる。
夜行バスの小さなシートに閉じ込められて
縮こまった間接を伸ばしたかったし
これから仕事を始めるゲストハウスに
こんな疲れ切って、ひもじい様相で向いたくなかったのだ。
全く土地勘のないこの街だったけれど
ほんの数分ほど 歩き回ったところで
古びた市民温泉をみつけた。
バックパックからはみ出したヨガマットと
冬を越すのに最低限の着替えのほか
何ももっていない わたしは
あまりにも身軽で
そのせいか
野生の勘が冴えはじめていたのかもしれない。
番頭のおばさんに100円を渡して
乱暴に扱うと粉々に砕けてしまいそうな薄いガラス戸を慎重に引き
脱衣所に入った。
駅に降り立った時の硫黄の臭気から
白濁した粘りのあるような湯を想像していたのだけれど
脱衣所から階段を下りたところにある
8畳ほどの小さな湯船は
さらりと透き通っており
すりガラス から差し込む日の光を反射しながら
おちついた様子で湯気をたちあげている。
服を脱いで 階段を下り
備え付けの石けんを手のひらで泡立てて さっと体を洗うと
とても慎重に 温泉の湯船の中に
体を鎮めていった。
その湯の温度は驚くほど熱かったけれど
目を閉じて全身の血管が弛緩するのを感じているうちに
その温泉地に降り立った時点から感じていた
額の皮膚の一枚下に
針金を上から下へまっすぐ一本埋め込んだような鈍痛が
湯に入るやいなや溶けてなくなるように消え去ってゆくのを感じた。
この土地には何か不思議な力があって
たった今 その威力を見せ付けられたような
そんな思いだった。
この土地の偉大な力と わたしの体は うまく連動し合うことができるだろうか・・・。
温泉を出てしばらくは 額から汗が吹き出たけれど
それをパフで上から押さえつけるようにして化粧をする。
化粧をするという行為とは全く逆の発想のようであるけれど
どうかこの新しい土地で 新しい人たちと出会い
その中で、自分があまり無理をせず 自然体でいられますようにと願った。
温泉を探し当てたことによって
自分の勘にすっかり自信をもったわたしは
ゲストハウスも そのあたりを歩いているうちに見つけられるのではないかと
しばらく街をほっつきあるいてみた。
そして程なくして、わたしは そのゲストハウスにたどり着いた。
ゲストハウスの同僚は 後々になって
その初対面の日の事をこんなふうに言っていた。
「さっと 赤いカーペットが敷かれて
その上を 世間知らずの お姫様が
ゆっくり歩いてくるみたいな登場の仕方だったよ。」
所持金100円のセレブリティーなんて
存在しえないけれど
その時のわたしの状況を
おとぎ話ふうに
解釈するならば
生きる術を知らないまま
森の中に迷い込んでしまった
お姫様のようなものだったのかもしれない。
暗闇の奥では
怪物が大きな口を開けて待ち受けているようだったし
親切そうに近づいてくる人は
毒リンゴを隠し持った魔女のようにも見えた。
それが「別府」という地に初めて訪れた12月のおわり。
赤や青の様々な色の温泉の湧き出る土地に飲み込まれた日だった。

