モナドには窓がない

11 月29

エレベータに乗る。わたしの住むマンションは、天津の中心地に位置する、それなりに高級感のある建物であるにも関わらず、エレベーターの中はいつも騒然としている。食べかけのカップラーメンが転がっていたり、老婆が3歳くらいの男の子のズボンを下げて、その密室の隅で排尿させていたりするので、ドアが開くたびに、予想外の匂いがする。乗り合わせる人々も、たいそう着飾ったスーパーモデルのような中国人であったり、鼻が溶けたようになくなっている老人だったり、バラエティーに富んでいる。真夜中を除いては、たいてい誰かと乗り合わせる事になる。
わたしはエレベーターに乗るたびに「わたしは彼らと一緒に死ぬのか」と、思う。悲観的にではなくて、とてもごく自然に。

そんなふうに日常的に死を連想するのは、わたしが育った環境のせいだろうか。
父母の先祖が眠る墓地は、両方とも家から車で15分ほどのところにあり、墓参りは子どもの頃からの習慣だった。
夏に汗で湿ったすねを蚊に刺されながら小高い丘を登り、線香に火を灯す。
父は、立ち並ぶ墓石を1つ1を丁寧に指差しながら
「この中のうち、1人でも欠けていたら、ユカは生まれてこなかったんだよ。」と言って、いとも簡単に、わたし存在の可能性の希少さを立証した。
そして秋に差し掛かる頃になると、近くの神社から、祭囃子が聞こえてくる。八百万の神に捧げるためのその音は、台所から聞こえてくる洗い物の音やテレビの音などの混ざって、ごく自然に、生活の中に佇んでいた。
今、中国に住んでいて、マンションの外では、常に車のクラクションの音や、工事現場の騒音が響いている。それが、その時の心の持ちようによっては、小さい頃から聞いていた、太鼓や笛のお囃子のように聞こえることもあるのが不思議だ。そして、そういう時には、むしょうに空腹を覚える。
父が立証した、「存在の可能性の希少性」について、考えるたびに、宇宙がひろがってゆく。わたしは、とても感傷的な文系人間なので、数学的な意味で、宇宙とは向き合う事ができない。しかしながら、あらゆる可能性を内包した、あまたの宇宙の中のたったひとつの世界の観察者としての自分がいる、という感覚が好きだ。わたしの宇宙の隣には、歯科医院で白衣を着て入れ歯を磨いているわたしの住んでいる世界があって、その隣には、ヨーロッパでオランダ人の夫と、IKEAのソファーを座り比べているわたしの住む世界があって、またその隣には、温泉地の宿で、ドミトリーのベッドの下の埃を掃除機で吸い上げている自分がいる。それらは、わたしの近くにある(可能性の高い)世界だ。そして、もう少し遠くの世界を弄ってみると、そこでは、わたしは、悟りを開いた僧侶かもしれないし、親殺しの犯人かもしれない。もしくは産まれてくる手前のホルモンの関係で男だったかもしれないし、もちろん、産まれてこなかったという可能性も大きく存在するだろう。
モナド(単子)を定義したライプニッツは、楽観的に「自分の目の前にある現実が、自分にとって、最良の現実だ」と言ったけれども、それは本当だろうか。数学者であり、哲学者であった彼には、どんな世界が見えていたのだろう。モナドには窓がない。他のモナドとモナド(世界と世界)は、互いに影響しあう事なく、存在している。体験する事のできない世界と、自分の前にある世界をどのように比較する事ができるのだろうか。こんなふうに思ってしまうのは、自分が、文学的にしか、宇宙を解釈していないからかもしれない。せめて微分積分あたりから突破口を導き出して、いつしか「無限」という宇宙に浮かぶ感覚を味わう事ができたなら、彼の楽観主義の出所に気づくことができるかもしれない。見えないものを見てみたくなってしまうものだ。
ライプニッツのモナド論には、華厳教との類似性が指摘される事がある。
「一即一切、一切一即」あらゆるものは無縁の関係性によって成り立っている、という法界縁起の思想が、モナドの考え方につながるのだそうだ。なんだか「全てが縁であり、そして全てが無縁である」というようなニュートラルな意見に好感が持てる。
そんなふうに思えるのも、わたしが、神道と仏教の間で育ったからだろう。生というのが希少の可能性の産物であり、その上、死が生の中で量化していく感覚を わたしに植え付けたものは、ただそこにあった、宗教的な環境、という気がする。
エレベーターが「グワンッ」と、まるで怪物が目を覚ました効果音みたいな音を立てて、それから乗客を微妙に縦に揺らしながら上へ上へと登ってゆく。この造りのゆるいエレベーターは、いつか壊れる。何人かの死傷者が出てから、ようやく安全対策がなされるだろうと確信している。今日の乗客は、マウンテンバイクを押しながら入ってきた大学生ふうの若者と、ビニール袋に汁たっぷりの麺類を入れたものを3つ抱えた子ども、それから、ムスリム風の服装の老婆。
「今日は彼らと一緒に死ぬのか」
ぼんやりとそんな事を考えていると、尋常でない速度でエレベーターはわたしたちを20階に運ぶ。ドアが開いてエレベーターを出ると、大学生と、お遣い帰りの子どもと、ムスリムの老婆と一緒に死んでしまったわたしの住む世界が、永遠の宇宙の彼方に、ぽっと投げ出された。そして、旋回しながら、それは遠く遠くへ運ばれてゆく。

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