スモッグの中の女
「中国の女の子が、何を考えているのか知りたい。特に、恋愛について。」
わたしは、金粉が練りこまれたような柄の透明の回転テーブルの上を、新鮮な牡蠣や鮑の盛り合わせや、牡丹の花のように盛り付けられた羊肉が回るのを眺めていた。その日、天津人のWang君が招待してくれた四川料理屋は、わたしと恋人がよく行く、羊肉に猫肉を混ぜて出しているような店とは、雲泥の差の、高級レストランだった。
エレベーターのドアが開くと、そこには、ホテルのロビーのような落ち着いた雰囲気のセプションが広がっていた。よく光を反射するゴールドの金属製の天井から、控えめなデザインのシャンデリアが釣り下がっており、真っ赤な壁の上を走る木製の格子が、均等に、影を落とす。
Wang君は、慣れたふうに、1人のタキシード姿の案内人に従い奥の個室に進んでいった。
正方形の個室には、窓がなく、その代わりに、壁をくりぬくような形でガラス張りのミニカウンターが備え付けられおり、その一角が部屋全体にわずかな開放感をもたらしていた。部屋の隅に、3人、ウエイターが立っており、わたしたちが入ってくると、コートを脱ぐのを手伝って、椅子を引いてくれた。とても不慣れな手さばきではあったけれど、サービスという概念自体が根付いていない中国に来て、これには、少し驚いた。
「天津に、何人か、女の子の友だちがいるから、彼女達と話してみると良いですよ。」
Wang君はそう言って、父の部屋からくすねて来たというワインを紙袋から2本取り出し、ウエイターに開けさせた。高級なワインである事はひと目でわかった。中国には、時々、こういう金持ちがいる。「お父さんは、何の仕事をしているの?」と聞くと「詳しい事は知らない。」というタイプだ。成金のように、わざわざ自分を裕福に見せるような事はせず、いたって普通の振る舞いをしている。それなりに競争社会にもまれてきた経験があるお金持ちと違い、Wang君のような、お金持ちは、信じられないくらいにお金に無頓着だ。常に「これは日本でいくらする?」「彼氏の年収はいくらだ?」とお金の話ばかりしてくる中国人よりも、彼らのような、肩の力の抜けた筋金入りの富裕層のほうが、日本人にとっては、接しやすいと思う。
Wang君の女友だちも、またWang君のような、この中国という国が、どれだけ生きづらい場所なのかを知らない、スモッグのかかる空の向こうの雲の上で育ったような女たちなのだろうか。経済的な環境は違えど、もしかしたら、腹を割って恋愛について話せるのは、そういう人たちなのかもしれない。
わたしの中国人の友人の大半は、スモッグの中で逞しく生きている。友人のフィオナもまさにそんなタイプだ。彼女とわたしは、週末ごとに外国人が集まる、バーで出会った。彼女は、小柄で、ふっくらとドレープのかかったニットと、ラメ入りの黒いタイとスカートをはいていた。腰のあたりまでを覆うウエーブのかかった髪と、2重に巻いた金メッキとグリーンのプラスチック製の大振りのネックレスのボリュームが、華奢な体つきによく似合って、嫌味のないゴージャスさを醸し出していた。日本の雑誌のスナップショット欄に彼女の写真を載せれば、おそらく誰もが彼女は日本人だと思うだろう。ただし、その夜、彼女が日本人でない事は一目瞭然だった。なぜなら、その小さく整った顔の半分くらいはあろうかと思われる肉の塊を よく手入れのされた指先になかば突き刺すようにして皿から浮かせて食べていたからだ。「天津の人?」と聞くと「いや、ここから車で1時間くらいの、田舎のほうの出身。」と言った。肉を皿に戻して彼女が微笑むと、両方の口角から小さな犬歯がこぼれた。全体の雰囲気と比べて、笑顔が異様に幼く、それが、とても魅力的だった。「誰と一緒に来たの?」と聞くと、ビリヤード台のほうを指差して「ボーイフレンド」と言った。ビリヤード台周辺には、白人がごったがえしていて、彼女が誰を指しているのかはわからなかったが、ひとまず彼女の恋人が中国人でない事はわかった。
「彼氏は何人なの?」
「カナダ人」
「何年くらい付き合ってるの?」
「2年」
「いつか、カナダに移住するの?」
「カナダでは、良い仕事につけないから、多分、移住はしないと思う。」
そんな話をしていると、そのカナダ人の恋人がわたしたちのテーブルに近づいてきた。わたしのほうに目で「Hi」と一瞬だけ合図したかと思うと、フィオナに後ろから抱きつき、「I love you」と言って激しく彼女にキスをしてそれから、またフラフラと、ビリヤード台のほうへ歩いていった。
「仲良さそうだね。」と言うと
「彼は、わたしの初めての人だから、わたしにとっては、とっても大切な人。中国では、結婚までセックスしないカップルが多いのは知ってるでしょ?それを考えると、わたしと彼の関係は、中国の結婚を前提に付き合っているカップルよりも、深いはず。・・・でもね、彼は、将来、中国に住む気はないの。天津は良いところだし、彼は、外国人だから、あんまり仕事をしなくても、いっぱいお金を稼げるのに、それでも嫌なんだって・・・。」と、少しだけ表情を曇らせた。
それはまさしく、’’アジア人女性を誑かす白人’’的な構図が出来上がった瞬間だった。中国に住むアメリカ人たちの会話を聞いたことがある「もし中国語を勉強したいなら、英語を話せない中国人と付き合うと良い。教室に通うよりお金がかからないし、上達も早い。ただし、注意しなければならないのは、彼女らは、すぐ深入りしようとするから、常に一定の距離を保つこと。むこうの家族に会うなんて、とんでもない!結婚にまで持ち込まれてしまう。」彼らは、中国において、白人がいかに優位な立場にあるかを自負しているようだ。それが、事実である事をしりながら、わたしは、そんな彼らにうんざりしている。その夜、わたしとフィオナが、共に、白人の恋愛観を批判し、時に罵り、そして、いかにアジア人女性が保守的で、純粋であるかを話し合い、共感しあったのは言うまでもない。

その翌日、フィオナからメールがきた。
「今、職場にいるんだけど、会わせたい人がいるから、来ない?」
わたしは、昨夜の白人批判の熱が覚めやらず、自分の白人の恋人に対して、朝から辛く当たっているところだったから、ちょっと、外の空気を吸うのも良いだろうと、タクシーに乗って、彼女が勤める銀行へ向った。
銀行員のフィオナは、バーで肉を食んだり、恋人と激しくディープキスしていたフィオナとは別人だった。髪を1つにまとめ、パンツスーツに、派手な柄のスカーフをして、すっきりとした化粧をしている。昨日は、幼く見えた笑顔が、今日は、少し大人びている。「さっき、言い忘れたんだけど、パスポート持ってきた?」とフィオナは聞いた。「持ってない」と言うと、「そうかぁ。今日、うちで、口座を開けば、良い特典があったんだけど・・・まぁいいや。」と言って、わたしの腕にその細い腕を絡ませて「じゃあ、2階へ。」と大理石の螺旋階段の向こうの第2ロビーに案内した。どうやら、そこはエグゼクティブ向けの窓口という事らしい。その窓口の前に大柄な30歳前後の男性が立っていた。フィオナはその男の前にわたしを連れて行くと「彼女が、ユカリ。わたしの日本人の友だち。」と中国語で紹介した。なぜか、向こうの紹介はなされず、明らかに変な間だけを残して、わたしたちはその男の前を去った。フィオナは小声で「どう思う?彼。」と聞いた。どう思うという事もなかったので、しばらく黙っていると「背が高くて、素敵だと思わない?収入も良くて、その上、出世する可能性大なの。それに、天津の人だから、いろいろと、ほら、便利でしょ。」わたしは、なるほど、彼は、フィオナが、将来の夫の候補としている男性なのだと、その時、ようやくわかった。わたしは「そうだね。なかなか良いんじゃない?」と言いながら、昨日「I love you」と言ってフィオナにキスしていたカナダ人の事を思い出していた。残念ながら、中国人女性のほうが、うわ手なのだ。最後に泣くのは、自国に帰って、中国にいた頃ほど女にもてないカナダ人かもしれない。
「Wang君は、来年からアメリカに行くんだっけ?」
わたしたちはWang君が持ってきた高級ワインを既に2本飲み干していた。
「はい。アメリカの大学で建築を勉強するつもりです。それもあって、今は、結婚を考えるタイミングじゃないんです。」
20歳の子が、真剣に「結婚」という言葉を口にするのが、微笑ましかった。
「何も、結婚まで考えなくても。」
と、つぶさに反応したのは、もちろんカジュアルな男女関係に通じている白人男だった。
「いいか、男は、ある程度、いろんな経験をしておいたほうがいい。恥をかいたり、失敗をしたりするから、成長するんだ。それに、初めから上手な男なんていない。俺だって、最近ようやく自分が何をやってるか把握できたところだ。もし、何の経験もなくて、ある日、’’リアルなの’’に出会ったらどうする?その女に何をしたら良いかわからないだろ?」
わたしは、いつものように、’’この、ふしだら白人男’’と彼を睨みつけようとしたけれど、彼が’’リアルなの’’と言ったときに、わたしのほうに目配せをしたのに気づいたので、つい、はにかんでしまった。咳払いして、少し表情を落ち着けてから
「中国には、性教育とかはあるの?」と聞いた。
「全くありません。」
「日本は?」
目を輝かせながら聞いてきたのは、Wang君ではなくて、わたしの恋人のほうだった。
「日本は、そうねぇ・・・わたしの世代だと、ある程度の生理学的な事と、コンドームの知識。あと、マスターベーションは悪い事じゃありませんよ。みたいな話があった気がする。」
Wang君はマスターベーションという英単語を知らなかったから、恋人が中国語に訳した。
「わたしは、何事も経験、みたいには正直思わないし、伝統的な価値観の中で育っているから、西洋人の真似事みたいにオープンにはなれない。だけど、性的な事が闇の中で育っていくみたいなのよりは、ある程度光を当てたほうが良いとは正直、思うの。・・・あ、それと、日本人だから言っておくけど、日本のAVは、あんまり良い参考にはならないからね。」
Wang君は、その言葉を真摯に受け止めている様子だった。
「ユカが言ってるのは、つまり、F☆ck a lot of girls!!って事だよ。」
恋人がそんなふうにまとめようとするので、それを牽制し
「じゃなくて、もしもね、魅力的だと思う女の人がいて、その人が好きだと思ったら、その気持ちに素直にね。って事。伝統に縛られたり、先の事を考えすぎたりしなくてもいいから。」
わたしは、なぜだか、異様に熱く語っていた。老婆心か、それとも、ただ飲みすぎたのか。
Wang君は、3人分の清算をした上に、高級ワインを手土産に持たせてくれた。
すばらしい夕食だった。こんなにリッチな夜を過ごしたのは、いつぶりだろうか。やはり、Wang君に近づいてくる女の大半は、彼の背後にその経済力を見るのかもしれないな。と思った。彼には、このスモッグの向こうの雲の上に住む、経済に無頓着な女が良いだろう。もしもWang君が本当に女友だちを紹介してくれたら、雲の上では、どんな恋愛が繰り広げられているかを聞いてみよう。

